1983年に『ファミコン』が登場してから約10年間にわたり続いた任天堂の1強市場。
永らく続いた任天堂による統治は1994年に登場したソニー『PlayStation』によって打倒される。
トップシェアを取ったソニーは様々なビジネス戦略により、サードパーティーおよびユーザーの心を掴むことによりその地位を揺るぎないものにしていた。
- これまでの歴史
- 据え置き型ゲーム機の歴史(その肆)
- 強烈なインパクトだったセガの広告戦略
- 第二次次世代機大戦の終結
- 【次回予告】ゲームもオンラインの時代に!技術の進歩がまたもや僕らをワクワクさせる!
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これまでの歴史
黎明期編~戦国時代編(1979年~1983年)
絶対王政編~レジスタンス編(1984年~1990年)
文明開化編~第一次次世代大戦編(1991年~1997年)
据え置き型ゲーム機の歴史(その肆)
第二次次世代機大戦編(1997年~2004年)
『PlayStation』により任天堂の王政を切り崩し、テレビゲーム市場のトップシェアを奪い取ったソニー。
サードパーティーの取り込み、中古市場への流出削減など様々なビジネス戦略を用いて、己の足元を揺るぎないものへと固めていった。
しかし他社はソニーに取って代わろうと、虎視眈々とそのチャンスを窺っていた。
この時代のゲームソフトは「美しい画像」「3D映像」「声優によるフルボイス化」「生音源によるBGM」など、より膨大な容量を欲していた。
1988年に『PCエンジン CD-ROM2』で家庭用ゲーム機として初めてCD-ROMが登場した時、その540MBという大容量を持て余していたが、それから約10年経ったこの頃は既にROMの容量不足が問題となっていた。
各社が新しい電子媒体を採用した次世代機を開発し、1988年に発売された『Dreamcast』を皮切りどんどん新ハードが投入され、にゲームハード市場はふたたび戦乱の世に突入したのであった。
Dreamcast
メーカー:セガ・エンタープライゼス
発売日:1998年11月
定価:29,800円
販売台数:国内280万台/世界913万台
CD-ROMの2倍の容量を持つGD-ROMがソフト媒体として採用されている。
『PlayStation』に劣勢を強いられていた『SEGA SATURN』の次世代機として社運を賭けて開発され、第二次次世代機大戦の先陣を切って発売となった。
搭載しているグラフィックチップの開発が遅れたことで、生産とソフト開発に遅れが生じたため、予定していた豪華なローンチタイトルのほとんどは発売延期となり、先行発売の利を生かせずシェアの獲得に失敗する。
『PlayStation 2』とのシェア争いに再び惨敗したセガは、2001年1月に『Dreamcast』を含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。
『Dreamcast』は1983年から18年間続いた老舗家庭用ゲームハードメーカーの最後のゲームハードとなった。
PlayStation 2
メーカー:ソニー・コンピュータエンターテインメント
発売日:2000年3月
定価:39,800円
販売台数:国内2,198万台/世界1億5,768万台
CD-ROMの7倍の容量を持つDVD-ROMがソフト媒体として採用されている。
発売から3日で98万台を売り上げ、翌2001年10月には全世界出荷台数が2000万台を突破する。
『PS』の後継機として下位機種との互換性を持ち、『PS』のソフトもプレイできる事が大きく評価された。
最終的に全世界で1億5,000万台以上を売り上げ、第一次次世代機大戦に続き、第二次次世代機大戦もダントツのトップシェアを堅持する事となった。
GAME CUBE
メーカー:任天堂
発売日:2001年9月
定価:25,000円
販売台数:国内404万台/世界2,174万台
CD-ROMの約3倍の容量を持つDVDを軸にした任天堂独自の8㎝光ディスクがソフト媒体として採用されている。
任天堂のゲームハードとしては、標準ソフト媒体としては初めての光ディスクの採用となった。
『NINTENDO64』時代の売り上げ不振を払拭するには至らず、「任天堂の次世代機」としてある程度普及したものの、国内での売り上げ台数は400万台と『PrayStation 2』には遠く及ばなかった。
余談だが、『GAME CUBE』の起動音を16倍速にすると、1986年に任天堂から発売された『ファミコン』周辺機器である『ディスクシステム』の起動音になる。
Famicom Disk System and the Gamecube
これは発売から9年経った2010年にユーザーによって発見され、任天堂ファンだけでなく多数のゲーマーに感動を与えた。
こういう任天堂ならではの遊び心には本当に感心させられる。
Xbox
メーカー:マイクロソフト
発売日:2002年2月(日本市場)
定価:25,000円
販売台数:国内53万台/世界2,400万台
『PlayStation 2』と同じCD-ROMの7倍の容量を持つDVD-ROMがソフト媒体として採用されている。
パーソナルコンピュータの部品をほぼそのまま流用した構成となっており、一部のメディアはほとんどPCと呼ぶほどだった。
当初マイクロソフトはセガの『Dreamcast』に技術供給を行っており、ドリームキャストが商業的に失敗すると、マイクロソフト自身がゲーム業界に参入すると『PlayStation 2』に宣戦布告。
かつて、日本のゲーム機市場に他国メーカーが本格参入した例は少なく、Xboxの上陸は「黒船」に例えられて話題を集めた。
全世界での売り上げは2,400万台と『GAME CUBE』を上回っており、爆発的ヒットタイトルも多数生まれた。
日本以外の地域では『PlayStation 2』に次ぐシェアを獲得し、マイクロソフトの家庭用ゲーム機初参戦は成功と言える。
ただしソニーのお膝元、日本での売り上げだけは芳しくなく53万台に留まった。
強烈なインパクトだったセガの広告戦略
当時セガの広告戦略は斬新かつユーモラスであり、とても人気があった。
『SEGA SATURN』の広告キャラクター「せがた三四郎」も大人気で、ゲーム機そのものよりもコミカルな演出などを前面に押し出すスタイルでこれがユーザーに大ウケとなった。
『Dreamcast』のPRででもそれを引き継ぐ方針で、大川功会長が懇意にしていたあの秋元康を宣伝プロデューサーに招聘。
宣伝広告費はセガとしては空前規模の130億円を投じる事になった。
ティーザー広告
発売日の約6ヶ月前、1998年の5月21日と22日の2日間の新聞で下記の全面広告が打たれた。
21日の新聞には「セガは倒れたままなのか」のコピーで戦国武将が討ち死にした場面の写真が掲載されていた。
そして翌日の新聞に掲載されたのは「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」のコピーとともに、討ち死にしたと思われた武士たちが一斉に立ち上がる写真であった。
ストーリー性が明確に伝わってきて、実際に全面広告を見た人々はワクワクしたものだ。
湯川専務シリーズ
6月19日には「湯川専務」シリーズが開始され、小学生のグループが
「セガなんてだっせーよな!プレステのほうがおもしろいよな!」
「帰ってプレステやろうぜ〜!」
などのフレーズを湯川英一に言い放つ自虐的なCMが放送され、話題になった。
CMには湯川英一を筆頭とした当時のセガ現役役員が出演し、特に「湯川専務」は役者と見違えるようなコミカルな演技から一躍時の人となった。
リアルタイムでこのテレビCMを見た世代として言わせてもらうと、あんな一流企業の役員がこんな自虐CMに実名で出演しているなんて、なんて楽しそうな会社だろうとやはりワクワクした。
第二次次世代機大戦の終結
トップシェアを誇るソニーに対し、老舗メーカーのセガ、元トップシェアの任天堂、米国の巨大企業マイクロソフトの3社が戦いを挑んだが、蓋を開けてみれば『PlayStation 2』を投入したソニーの圧勝であった。
『Xbox』も『Dreamcast』も『GAME CUBE』も決して粗悪なハードなどではなく、どれも次世代機の名に相応しい素晴らしいゲームハードだった。
『PlayStation 2』は当時高級機であったDVDプレイヤーの機能が備わっている事、『PS1』との互換がありそのソフトをプレイできる事など次世代ゲームソフト以外にもメリットが多かったのも大きいと個人的には思う。
現に若い世代は『PlayStation 2』でDVD鑑賞も兼ねてる者が多数いたし、発売直後などはローンチタイトル以外でも『PS1』のソフトを良く遊んでいた。
とにかく『PlayStation 2』の人気は過去にないくらい過熱し、全世界販売台数である1億5,768万台という記録は2018年現在でも歴代ゲーム機(携帯機含む)の中で1位であり、さらなる次世代機が登場する2000年代中盤までは世界1位の人気を一度も譲る事は無かった。
【次回予告】ゲームもオンラインの時代に!技術の進歩がまたもや僕らをワクワクさせる!
とうとう押し寄せるインターネットの波!
各ハードメーカーが挙ってこの流れに乗ろうと戦略を張り巡らせる!
ファミコンから23年、友達の家で集まって遊んでたプレイがそれぞれの自宅でできるようになる!しかも世界中のゲーマーと!
次回『ネットゲーム時代の幕開け』お楽しみに!
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