現代では世界的に普及しており、娯楽のひとつとして確実に認知されているテレビゲーム。
昨今ではeスポーツとして高額賞金を稼ぐこともでき、海外などでは職業としても定着しつつあるジャンルとなりました。
今回は日本国内におけるこのゲームの歴史を、ゲームハードにスポットを当てて書いてみようと思います。
さて、我々が楽しく遊んでいる『ゲームハード』はどのような歴史を紡いできたのでしょう?
様々なゲームハード
「コンシューマーゲーム機」「家庭用ゲーム機」と呼ばれるゲームハード。
この呼称の中には本来「携帯ゲーム機」など様々な形態のハードも含まれるが、本記事では
・テレビに接続してプレイするゲーム機
・ソフト交換式のゲーム機
を条件にしたゲームハードに絞って取り上げていく。
当記事内での「据え置き型ゲーム機」という表現は、その他のゲームハードとの区別化を解りやすくするため上記条件を満たしたゲームハードの呼称とする。
それでは日本国内の「据え置き型ゲーム機」の歴史に入る前に、それ以外のゲームハードをいくつか簡単に紹介しよう。
テレビテニス
エポック社
1975年9月
19,500円
日本で初めて販売されたゲームハードである。
モノクロ画面に表示されるボールを、2人のプレイヤーが左右に打ち合うゲームが内蔵されている。
任天堂のゲームハード
カセット式のゲーム機が国内で登場する前にいくつか『任天堂』もゲームハードを販売している。
まだファミコンを制作する前の『任天堂』はどのようなゲーム機を創っていたのか?
カラーテレビゲーム15
メーカー:任天堂
発売日:1977年7月
定価:15,000円
販売台数:100万台
『任天堂』が初めて販売したゲームハードです。
『テレビゲーム6』(9,800円)と同時発売であるが、内蔵されているゲームの種類が6本か15本かの違いしかない。
レーシング112
メーカー:任天堂
発売日:1978年7月
定価:12,800円
販売台数:16万台
112種類のゲームが遊べるというのが売りだったが、ゲームごとの差が不明確であり早い段階で市場から消えた残念なハードとなった。
ゲームウォッチ
メーカー:任天堂
発売日:1980年4月
定価:5,800円~
販売台数:国内1,287万台/世界4,340万台
任天堂開発による初の携帯型ゲーム機。
社会現象ともいえる爆発的ヒットとなり、当時任天堂が抱えていた70億円もの借金を一気に返済し、さらには40億円もの黒字を出す。
その利益をファミリーコンピュータの開発費としたことも有名である。
据え置き型ゲーム機の歴史(その壱)
1979年~1982年【黎明期編】
日本国内における『据え置き型ゲーム機』の黎明期。
米国でアタリ社のアタリVSCが空前のブームとなった1977年。
その2年後にブームの余波は日本へも影響をもたらす。
とは言え自社開発できる技術力があるメーカーは少なく、この頃は海外製品の輸入販売が主だった。
そんな中、ハードとソフト共に日本独自の開発なのは日本初となるエポック社の『カセットビジョン』が一世を風靡する。
カセットTVゲーム(アタリVCS)
メーカー:エポック社(米国アタリ社)
発売日:1979年
定価:57,300円
販売台数:国内36万台/世界3000万台
1977年に米国アタリ社で『アタリVCS』として発売された世界初のソフト交換式テレビゲーム。
米国で爆発的に普及し、日本では1979年からエポック社が『カセットTVゲーム』の商品名で輸入販売を行った。
『スペースインベーダー』がキラータイトルとなり、日本国内でも一定数の販売がなされたが現在の2倍ほどの物価で5万円を超える値段の為爆発的に売れる事はなかった。
カセットビジョン
メーカー:エポック社
発売日:1981年7月
定価:13,500円
販売台数:45万台
ハード・ソフト共に初めて日本企業が開発、製造、販売したテレビゲーム機。
他にもハードを国内で生産した例はあったが、ソフトは海外製の輸入ソフトだった。
自社開発により13,500円という低価格を実現しながらも既存の人気ゲームを移植するなどして、当時のコンシューマーゲームハードとしては群を抜く普及を見せた。
インテレビジョン
メーカー:バンダイ
発売日:1982年7月
定価:49,800円
販売台数:国内3万台/世界300万台
米国マテル社が1980年に発売。
日本ではバンダイが1982年から輸入販売を開始行った。
この時代の『据え置き型ゲーム機』としてはかなりの高スペックなのが売りであったが、やはり5万円近い高級品は敬遠され3万台の売上で終わり『カセットビジョン』の牙城を崩すには至らなかった。
1983年【戦国時代編】
日本国内における『据え置き型ゲーム機』の戦国時代。
この頃になると娯楽としてのテレビゲームの認知度が高まり一定の市場を築きつつあった。
国内企業はこぞってこのビジネスチャンスに乗っかり、テレビゲーム機の新作ラッシュの年となった。
この年だけで10種類以上のゲーム機が発売されたのだった。
まさにテレビゲーム史の戦国時代の幕開けである。
アルカディア
メーカー:バンダイ
発売日:1983年3月
定価:19,800円→9,800円
販売台数:???
高額な『インテレビジョン』の輸入販売で失敗したバンダイがその教訓を生かし、より安価な米国エマーソンラジオ社の『アルカディア』を輸入し、『インテレビジョン』の後継機として販売した。
19,800円という価格は安かったが、4か月後に登場する化け物『ファミコン』の人気に苦戦し9,800円まで価格を下げるがそれでも敗北。
バンダイはゲーム機事業から撤退する事になる。
SG-1000
メーカー:セガ・エンタープライゼス
発売日:1983年7月
定価:15,000円
販売台数:40万台
様々な工夫により15,000円という低価格を実現していた。
しかし、当時としては段違いに高性能かつ低価格なファミコンの前に劣勢を強いられることとなる。
結果ゲーム機戦国時代ではファミコンに敗れはするが、当初セガの予想売上5万台だったのに対し、40万台も売れる大ヒットとなり、その後のセガ独自ハード路線を決定づけた。
PV-1000
メーカー:カシオ計算機
発売日:1983年10月
定価:14,800円
販売台数:???
価格は14,800円で、価格では3か月前に発売されていた人気ハード『ファミコン』に対抗できたが、売れ行きは全く及ばなかった。
カシオは勝てないと踏んだのか早々の撤退をしており、当初15本発売予定だったソフトを13本で終了した。
ファミリーコンピュータ
メーカー:任天堂
発売日:1983年7月
定価:14,800円
販売台数:国内1,935万台/世界6,191万台
任天堂、山内溥社長の「価格、技術両面共に少なくとも他社が一年は追随できないものを作れ。」という至上命令の元、開発二部部長である上村雅之氏が徹底的な他社ゲーム機の研究と材料費のコストダウンを行って開発される。
特にグラフィック面に特化して設計されており、1980年代前半のアーケードゲームと比べてもあまり遜色のないグラフィックを実現。
チップ開発提供元のリコーには1個2,000円での納入価格を求めるが、リコーは流石にこれに難色。
しかし山内社長の「2年間で300万個の購入を保証してやりなさい」との言葉にリコーは要求をのみ、 15,000円を切る本体価格が実現した。
数々の企業努力によりこの時代のゲーム機の中では群を抜く高スペックなのにも拘わらず14,800円という驚異の低価格での販売を可能にした。
ファミコンはゲーム機戦国時代において他機を圧倒し、発売から半年で45万台を販売。
翌年1984年にはサードパーティーの参入が始まり、良質なソフトが量産された事も追い風となり165万台を売り上げる。
そして1985年にはあの『スーパーマリオブラザーズ』が発売されたこともあり1年間で374万台をも売り上げ、完全にゲーム機戦国時代を統一する事になる。
【次回予告】そして任天堂の絶対王政期が始まる
昭和59年。
『任天堂』は手にした覇権を永久の物とするため、数々のビジネススタイルやファミコンソフトの販売におけるシステムを構築していく。
そしてこれよりかなりの期間ゲーム機業界は『任天堂』の絶対王政期となるのであった。
ファミコンの人気に屈し、その利益にあやかりたい他社メーカーはこぞって『ファミコン』のサードパーティーとして『任天堂』の傘下に降ってゆく。
他ハードメーカーにとっては暗き、永い暗黒時代の幕開けであった…
次の記事では10年にわたりテレビゲーム業界の王者として君臨する任天堂の絶対王政システムの詳細と、虎視眈々とその座を狙う他メーカーたちとの激しい商戦を描きます。
次回『絶対王政編~レジスタンス編』お楽しみに!
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