1979年に初めて日本で輸入発売された『据え置き型ゲーム機』。
海外製ハードだけでなく国内開発ハードもどんどん出てきて、テレビゲーム業界は戦国時代へと突入しました。
様々なメーカーがそのシェアを奪い合い参戦してくる中、1983年に伝説のモンスターハード『ファミコン』が登場します。
その圧倒的なスペックと良心的な低価格にゲーマーたちは歓喜し次々と購入。
その人気はゲーマーだけに留まらず老若男女に広がり『ファミコン』は爆発的大ヒットに。
1984年、戦国時代であった市場は統一され『任天堂』一強の時代の幕開となりました。
これまでの歴史
黎明期編~戦国時代編(1979年~1983年)
据え置き型ゲームの歴史(その弐)
1984年~1986年【絶対王政編】
日本ゲーム機戦国時代を制し、天下統一を果たした任天堂はアタリショックを恐れていた。
アタリショックとは米国における1982年に7,520億円あったゲーム市場が1985年にはわずか200億円まで減少した米国家庭ゲーム市場の崩壊のことである。
任天堂の山内博社長の認識によると、「サードパーティーによる低品質ゲームソフト(クソゲー)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」と言う。
テレビゲーム戦国時代を勝ち抜き天下統一を果たした任天堂はファミコン市場で、アタリショックの二の舞は絶対に避けなければならない。
任天堂は「ハードメーカーがソフトの品質を維持し粗製濫造をチェックする仕組みを 作らなければ"アタリショック"は避けられない。」との考え方から、独自のシステムを創案する。
任天堂は商標に頼り、以下の規約をサードパーティーに義務付ける。
サードパーティーがファミコンソフトを製作するには任天堂とライセンス契約を結ぶ必要があるとし、 ライセンス供与に際しソフトメーカーに以下の3つの条件を約束させた。
(1)ゲーム内容について任天堂の審査を受けること。
(2)ソフト製作本数を(協議の上)年間1~5本以下とすること。
(3)ソフト生産は任天堂に委託し、その際、前金で製造費を支払うこと。
こうした受託生産方式に乗っ取り、厳しい条件の下、市場を管理するシステムである。
さらに初心会と称するサードパーティー初期参入メーカー六社による流通システムの支配を行い市場を守る仕組みを作った。
この六社とは『ハドソン』『ナムコ』『タイトー』『コナミ』『カプコン』『ジャレコ』である。
初心会は本数制限なし、自社ラインで生産可能等などの優遇を受け次々とソフトを販売してファミコンの享受にあやかった。
1ハードメーカーが玩具流通まで支配するシステムは絶対的であり『任天堂』の天下は永遠に続くかと思われた。
しかし、他ハードメーカーは死んではいなかった。
この圧倒的なファミコンの牙城を崩すため、様々なテレビゲーム機が果敢にも発売されたのであった。
スーパーカセットビジョン
メーカー:エポック社
発売日:1984年7月
定価:14,800円
販売台数:30万台
カセットビジョンの次世代機として発売された。
ハードウェア開発をNECが担当して共同開発を行った結果、性能はカセットビジョンと比べて圧倒的に向上した。
ユーザーには「スパカセ」の愛称で呼ばれた。
30万台と一定のシェアは築くことができたが、ファミコンの勢いを止めるには至らず1987年には終息していく。
セガ・マークⅢ
メーカー:セガ・エンタープライゼス
発売日:1985年10月
定価:15,000円
販売台数:70万台
発色数などでのファミコンを上回る部分もあったが、ファミコンの爆発的な普及、サードパーティー制導入の遅れによるソフトラインナップの偏りにより、劣勢を覆すには至らなかった。
しかし、「セガ人」と呼ばれるような熱狂的なマニア層を作り出した。
任天堂の追い討ち
エポック社もセガも任天堂の牙城を崩せない中、ファミコンの勢いはとどまる事を知らない。
さらに追い討ちを掛けるかのように任天堂はファミコン周辺機器ディスクシステムを販売する。
ディスクシステム
メーカー:任天堂
発売日:1986年2月
定価:15,000円
販売台数:400万台
ファミコン発売から2年。
任天堂は、ソフト容量の増大化と半導体価格の上昇からカートリッジの値段が上昇してしまうことに 危機感を抱いていた。
このディスクシステムはディスクカードと呼ばれる磁気ディスクがソフトとなる。
これでカードリッジ問題から解放される事を目指した。
しかし発売初年度は340万台と順調に売れたが、任天堂の掲げたディスクカードライセンス規約が厳しすぎたため、大手サードパーティーメーカーが参入を見合わせる。
さらにROMカセットの技術の進歩による、カードリッジの容量拡大、セーブ機能搭載などにより、ディスクカードの利点も失われたため、89年にはほとんど売れなくなった。
それでも400万台は十分な販売実績ではあった。
1987年~1990年【レジスタンス編】
発売から4年経っても衰える事を知らないファミコン人気。
エポック社がゲームハード機から事実上撤退したため任天堂・セガの1強1弱状態であった。
しかしここで新勢力メーカーのハード機やセガの逆襲の名ハードが投入され、ファミコンの牙城に徐々に食い込んでいくのであった!
PCエンジン
メーカー:NECホームエレクトロニクス
発売日:1987年10月
定価:24,800円
販売台数:1,000万台
ハドソンとNECホームエレクトロニクスとの共同開発により市場に投入されたゲーム機である。
1987年当時の家庭用ゲーム機の常識を覆す高速・高性能であり、任天堂の絶対王政を崩壊させるには至らなかったが、25%のシェアを獲得と新規ハードとして一定の普及に成功し、一矢報いた初めてのゲームハードである。
メガドライブ
メーカー:セガ・エンタープライゼス
発売日:1988年10月
定価:21,000円
販売台数:国内358万台/世界3,075万台
「時代が求めた16ビット」
「VISUAL SHOCK! SPEED SHOCK! SOUND SHOCK!」
などのキャッチコピーで鮮烈なデビューを飾ったセガの名ハード。
16BITのハイスペック性能とキラータイトル『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を引っさげ『スーパーファミコン』だけでなく世界を舞台に『Atari Jaguar』や『3DO』とも互角の戦いを繰り広げた。
CD-ROM2
メーカー:NECホームエレクトロニクス
発売日:1988年12月
定価:57,300円
販売台数:200万台
家庭用ゲーム機としては世界初となる光学ドライブを搭載し、『CD-ROM』をゲームソフトとして採用したPCエンジン周辺機器。
本機の普及により、『PCエンジン』のソフト供給は『CD-ROM』へ移行していく事になる。
まさに次世代機!驚愕の性能に全ゲーマーが感嘆の声を漏らした。
サードパーティーも多数加入しておりソフトの供給も順調であった。
6万円近い値段にも関わらず200万台を販売した。
他社メーカーの猛攻に楔を打ち込む任天堂
NECやセガが次々と新ゲームハードを投入し、任天堂のシェアに喰い込もうとしていた昭和63年。
任天堂の山内社長は上村氏に対し『ファミコン』の後継機の開発を命じていた。
それと同時にビジネス戦略として1987年10月、NECが『PCエンジン』の発売した直後に「任天堂が16ビット機『スーパーファミコン』を開発、来年夏にも全国の店舗で デモンストレーションをする」と新聞に記事を掲載。
1988年10月にセガの『メガドライブ』が発売されると、その直後に任天堂は本社で 『スーパーファミコン』の試作発表会を大々的に行った。
徹底的な情報戦略を敷いた結果任天堂の目論見通り、ファミコンの強力なソフト群(特にRPG)と 他社機の人気ソフト不足により、 消費者は『スーパーファミコン』に期待を膨らませ、他社製品を買い控えることになる。
そして満を辞したタイミングで伝説のモンスターハード『ファミコン』の名を継ぐ正当な後継機として『スーパーファミコン』が登場したのだった。
スーパーファミコン
メーカー:任天堂
発売日:1990年11月
定価:25,000円
販売台数:国内1,717万台/世界4,910万台
日本での出荷台数約1,717万台、日本以外では約3,193万台、全世界累計出荷台数約4,910万台を売り上げる。
対応ソフトは成2年から平成12年の間に1,388タイトルが発売され、『ファミコン』の1,252本を超えた。
発売から2年間だけで740万台を販売し、最終的な国内販売台数は『メガドライブ』の 約5倍、『PCエンジン』の約1.7倍の台数を売り上げるに至った。
『スーパーファミコン』は実にこの時代の家庭用ゲーム機80%のシェアを獲得し、他社ハードのレジスタンス活動を蹴散らした。
【次回予告】圧倒的なビジネス戦略の前に任天堂の統治は永劫に続くと思われたが…
任天堂の商業戦略は狙い通りに事を運び、次世代機争いもファミコンの後継機『スーパーファミコン』が完全にシェアを引き継ぐ事になり、1990年以降もテレビゲーム市場で高いシェアを独占する事になる。
しかしその後、10年覇権を握ってきたことでの任天堂の油断が自らの堅牢な城壁に穴を穿たれるのを許してしまう!
次回『文明開化編~第一次次世代機大戦編』お楽しみに!
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