1983年に発売した『ファミコン』でテレビゲーム機市場のシェアを独占し、サードパーティ導入、初心会の設立と販売ルートと利権を確立させ長年にわたりテレビゲーム業界を統治する任天堂。
他社の新ハードを情報戦略にて牽制し、16BIT次世代機としては後初となる『スーパーファミコン』への主力ハードの以降も大成功に終わった。
1992年、『スーパーファミコン』全盛期には任天堂の家庭用ゲーム機シェア率は80%を超えていた。
これまでの歴史
黎明期編~戦国時代編(1979年~1983年)
絶対王政編~レジスタンス編(1984年~1990年)
据え置き型ゲームの歴史(その参)
文明開化編(1991年~1993年)
『ファミコン』から『スーパーファミコン』への世代移行に成功し、テレビゲーム市場の独占状態を引き続き継続する任天堂。
『スーパーファミコン』以外のハードではNEC『PCエンジン CD-ROM2』、セガ『メガドライブ メガCD』も健闘はした。
しかしトップシェア争いでは、日本国内ではファミコンのブランドを活かした任天堂が他を大きく引き離し、2位にNECホームエレクトロニクス、3位にセガという結果に終わる。
この時、各社がCD-ROMに次世代ゲーム機としての可能性を感じ、開発と販売をしていく中、任天堂は読み取りが遅い事や原価の安いCD-ROMでは売上が減少すること等が懸念材料となり、そこまで力を入れていなかった。
永遠に続くかとも思われる任天堂の支配であったが、この時、技術の発展に伴う大きな時代の変化が徐々に迫って来ている事に任天堂は気付いていなかった…
NEOGEO
メーカー:SNK
発売日:1991年
定価:58,000円
販売台数:100万台
他の家庭用ゲーム機メーカーが「そこそこのハードウェアでそこそこの表現力」のマシンをリリースする中、「ゲームセンター向けハードウェアと同じ品質で、且つゲームセンターでヒットしていたゲームがほぼそのまま家庭で遊べる」という特徴により、特に金銭に糸目をつけない熱心なゲームファンに支持された。
しかし、本体は58,000円、ソフトは30,000円平均と非常に高価だったがアーケードのクオリティをそのまま家庭で楽しむことができたことから、高級志向を求めるユーザーのハートを鷲掴みにし、100万台にまで普及した。
メガCD
メーカー:セガ
発売日:1991年12月
定価:49,800円
販売台数:国内38万台/世界600万台
メガCDをメガドライブに接続することで、メガCD用ゲームをプレイできるほか、オーディオCDの再生も可能。
大容量を活かした画面描き換えによるアニメーションや動画圧縮技術を用いた作品も登場し、現在では定番となった“オープニングムービー”などの基礎を作り上げた。
翌年には『メガドライブ』との一体型である『ワンダーメガ』も82,800円で発売された。
任天堂の裏切り
1990年1月、CD-ROM機開発で任天堂とソニーとの提携が発表された。
ソニーがスーパーファミコン用CD-ROM機の開発をし、任天堂は ソニーに一体型互換機(Nintendo PlayStation)の販売許可をするとの内容だった。
次世代機の開発において任天堂はソニーのCD-ROM技術力を、ゲーム市場参入を目論むソニーは任天堂ゲーム機の膨大な顧客、巨大な市場、豊富なソフト資産を活用する権利を欲しており、お互いのメリットに基づく提携だった。
しかし任天堂はこの時ソニーにゲーム機市場の覇権を乗っ取られてしまうことを恐れていた。
そして1991年6月、ソニーがスーパーファミコン互換CD-ROM機「プレイステーション」を 発表した翌日、任天堂は「CD-ROM機の開発はフィリップスと共同で行う」 と裏切りの電撃発表をしたのだった。
当初ソニーは任天堂の「裏切り行為」に抗議をしたものの、「ソニーと契約したのはCD-ROMアダプタの開発のみであり、フィリップスとの提携と規格採用に影響はない」と任天堂に突っぱねられたため、「Nintendo PlayStation」の開発中断を余儀なくされる。(実際にフィリップスとの共同開発商品が市場に出ることはなかった)
『PlayStation』の開発責任者の久夛良木健(くだらぎけん)氏は激昂し、ソニー単独でのゲームハード機市場への参入をソニー上層部に進言。
しかしソニーの経営会議にて役員全員がゲーム機開発の撤退の意向であった。
「天下のソニーが任天堂などという京都の花札屋に万が一でも負けるようなことがあってはならない。」というプライドがある為だった。
それでも諦めきれない久夛良木氏はソニー社長の大賀典雄氏に上申。
デジタル時代の到来を予見し、ゲームは将来のエンターテイメントの中心になると確信する久夛良木氏の熱い想いを受け大賀社長はソニー単独による『PlayStation』の開発続行および市場参戦許可の英断を下す!
この時、日本ゲーム機市場の歴史は大きく動いたのであった…
第一次次世代機大戦編(1994年~1999年)
CD-ROMの時代の幕開け。
『PlayStation』でゲームハード業界に参戦するソニー!
老舗セガは名機『SEGA SATURN』を投入する!
他にも松下電器が輸入販売を行う『3DO』、SNK『NEOGEO CD』、NEC『PC-FX』など様々なCD-ROMゲームハード機が出揃う第一次次世代機大戦が勃発となる。
そんな中ゲーム機市場トップシェアを持つ任天堂はCD-ROMを嫌い、ROMカードリッジ機『NINTENDO64』で迎え撃つ。
果たしてこの壮絶な覇権争いを制するのはどのゲームハードなのか?
PC-FX
メーカー:NECホームエレクトロニクス
発売日:1994年12月
定価:49,800円
販売台数:11万台
PCエンジンの流れを汲んだ後継機。
当時の次世代ゲーム機競争の話題を彩ったが、動画再生に特化した性能のため当時のゲーム業界の流れだった3D化の流れから外れ、販売台数は11万台と低迷。
これ以降業績は悪化の一報を辿り、1998年にNECグループは家庭用ゲーム機業界から撤退することになった。
1987年から続いた家庭用ゲームハードメーカーの終焉である。
PlayStation
メーカー:ソニー・コンピュータエンタテインメント
発売日:1994年12月
定価:39,800円
販売台数:国内1,900万台/世界1億240万台
任天堂との共同開発が決裂したソニーが、単独にて発売したハード。
CD-ROMの可能性を最大限に発揮したマシン。
久夛良木氏の数々のビジネス戦略もあり、任天堂のシェアをどんどん切り崩していき、最終的に1,900万台を売り上げるモンスターハードとなった。
SEGA SATURN
メーカー:セガ・エンタープライゼス
発売日:1994年11月
定価:44,800円
販売台数:国内580万台/世界926万台
セガの6番目のコンシューマゲーム機ということから太陽系第6惑星である土星から名付けられた。
日本市場においてサターンは発売日に20万台、発売1か月で50万台、6か月で『PlayStation』よりも先に100万台セールスを達成するなど、セガの歴代コンソールとしては最も好調な売り上げを記録する。
日本市場ではセガとして最も売れたハードでもある。
NINTENDO64
メーカー:任天堂
発売日:1996年6月
定価:25,000円
販売台数:国内554万台/世界3,293万台
第一次次世代機大戦で任天堂が投入した次世代機ハード。
CD-ROM全盛期にあえてROMカードリッジ式に拘った。
発売されたソフトは日本国内では全206タイトルと少ないが、人気を博したソフトや、作品として極めて高く評価されているソフトも存在している。
最終的に日本国内では554万台、国外で2,738万台、計3,292万台が出荷された。
任天堂陥落!計算し尽くされたソニーのビジネス戦術
ソニーのサードパーティーの取り込み
ハードはソフトあっての物という考えからソニーの久夛良木氏は『PlayStation』のソフト開発をするサードパーティーの幅広い招き入れが重要事項と考えていた。
任天堂の黄金時代であった1994年頃、CD-ROMに対する印象の悪さからソフト会社は難色を示していたが、ソニーが150万円という格安価格で開発機材を提供したことで、続々とゲームメーカーが多数参入。
これが功を奏し1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えていた。
そしてついに1996年2月に日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズ最新作の独占販売が発表される。
これにより『PlayStation』の優勢が決定づけられた。
同年にはカプコンの『バイオハザード』が発売、翌年には『ドラゴンクエスト』シリーズも『PlayStation』参入が発表され、この第一次次世代機大戦の勝者が事実上決まった。
中古市場対策
製作者に利益が還元されない中古問題に着目したソニーは、発売から一定期間が経過したソフトについて廉価版(PlayStation the Best)をリリースする。
これにより中古と同等の値段で新品を買えるようし、今まで発売日には買わずに、中古が出回ったら購入していた層を取り込み販売本数の向上とメーカーの利益増の両立を実現した。
この流通改革はリピート生産が容易で生産が低コストなCD-ROMのメリットを活かしたものであり、ROMカードリッジでは真似できないものであった。
販売価格戦略
『スーパーファミコン』時代に1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格はCD-ROM採用によるソフト生産のコストダウンなどで5,800円からと低価格化させ、ソフト購入の敷居を大幅に下げた。
本体価格に関してもプレイステーションは発売時の希望小売価格は39,800円だったが、39,800円から29,800円、24,800円、19,800円、18,000円と段階的に値下げをしていき、最終的に15,000円まで値を下げた。
この値下げは、開発者の久夛良木氏の戦略であり、後の技術の進歩によりパーツが安くなることを想定し、予め代替えされるパーツをシステマティックに設計していたことにより可能になった。
親会社であるソニー本体はブランドイメージの低下を恐れ値下げに反対したが、結果この段階的値下げ戦略は本体購入の敷居も下げ、着実にユーザーを増やし大成功となった。
NINTENDO64の敗因
当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されていたが、度重なる延期による発売の遅延(ライバル機より2年近くも遅れた)により、登場時には『PlayStation』や『SEGA SATURN』が市場を占拠し始めていた。
それに加えROMカードリッジはCD-ROMに比べ低容量で高価格であり、少ない容量のソフトが1本1万円を超える価格というのも足を引っ張った。
1999年に『NINTENDO64』周辺機器としてCD-ROM用磁気ディスクドライブ『64DD』を発売するも時すでに遅く、人気シリーズを移籍させた『PlayStation』のシェアを奪還するに至ることはなかった。
【次回予告】ソニー新政権発足、押し寄せる技術革新の荒波!
10年にわたる任天堂の統治が崩れ、新しく覇権を握ったソニー。
しかしその後のゲームハード機シェア争いも苛烈を極める。
もう一度その座を奪い返したい任天堂の逆襲!
今度こそ念願のシェアトップを獲りたい湯川専務セガ!
そして黒船来航!マイクロソフト!
押し寄せる技術革新!DVD-ROMの登場!
次回『第二次次世代機大戦編』お楽しみに!
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